当然分かってると思うんですが

いい加減めざわりなので書く。


創作物は日常を描きません


あたりまえでしょう。
読者が身近に経験していることを、わざわざ描いて売る必要がどこにあるんですか。そんなもん誰も読まない。
そりゃ「日常」を売りにしてる創作物はありますよ。でもそれは、登場人物(主に主人公)たちの日常であって、彼らとほかのキャラや読者とのあいだで「日常」の基準がズレているから創作物として成り立つんです。
日常的にコメディのネタが転がってるわけねえだろ!

ロシアの偉い人は異化作用とか言ったらしいですが、ともあれ読者と劇中世界あるいは登場人物のあいだに何か前提あるいは認識の差異があり、そこに読者が興味をもつからこそ創作物は創作物としての地位を確立するわけです。
ちなみに、別に現実世界とだけ前提の差異があればいいってもんでもありません。あまりに先行作品と似ていると、パクリとか二番煎じとか言われますし、事実なら目も当てられませんからね。アーサー・C・クラークの「楽園の泉」のごとく、大御所の新作と同時期に同じネタの小説を新人が出して、前者が弁護に入ったなんて話もありますし。
とはいえ、そこを逆手に取って、先行作品と大方は似ているのに、ある一点だけ違うせいで物語すべてが違うものに見える、というパターンも散見されます。


で。
結局何を言いたいかというと、創作物だけでその舞台、あるいはその作者とおなじ文化を論評するのはあまりにも早計、むしろ滑稽だということです。
彼らにしかできない見方というのは存在しますが、それが作者とおなじ人種民族宗教文化の総意と言いがたいのは、「悪魔の詩」にかんする騒ぎを見ても自明でしょう。
まして恋愛などの感情や、メシなどの人間三大欲を主眼に置いたコンテンツなら、なおさらのことです。


ですから、エロマンガ・エロアニメに描かれた日本を見ただけで、自分たちの方が偉いような気になって日本人は不道徳だとか野蛮人だとかほざいてる真性の莫迦どもには、可及的速やかに猛省を促したいわけです。
例えば正橋(本名朴)、お前とかな。
いくらなんでも、一般人が墓前でことに及ぶわけないでしょう。ましてや寡婦はかならず亡夫の兄弟に嫁ぐとか、聞いたときは爆笑しましたよ。
まあ、わざわざそんなもんばかり読んでる時点で、どうかと思うんですがね。


追伸。
差別とか言われてうざかったので書き足しますが。
高校の同級生だった劉さんは、そういうネタを振って呆れられても怒らない程度に常識人でしたよ。
ついでに、「ま、日本人もそういうイメージを外国人に投影することあるよね」と反論してましたね。
実際そのへんはお互い様ですが、限度もあるということで。